なんか論点が違う可能性もあるけど、、、初音ミクを醤油で描こうがインクで描こうが、あるいは液タブで描こうが初音ミクには違いないわけで、もっと極端にしてやればそういう問題が「すり潰された鳥」にも「テセウスの船」にも言えることだろうと思っています。同一性というよりも創発の問題なんじゃないのか、という。何にしても人間の認識によって無から生み出されているから、そこを物質の同一性とちょっと取り違えて生まれた哲学問題なのかもしれない。
たとえば、「同じ分子」があったとして、それらの同一性は観測して同じ反応をして確かめられるというだけ。逆に言えば、哲学的ななりすましがあってもいい。でも、どうせ区別できないなら別のものがある意味はないので、科学の世界では、これで解決。
でも、分子を████にしたら、全部集めても、もう同じではないっていうのが重要。テセウスの船をつくるパーツを全て集めても、仮に、原子を正確にすべて拾い集めても、それはテセウスの船ではない。すりつぶした小鳥から失われたのは、「小鳥」そのもの。だから、そもそも「テセウスの船」はテセウスの船をつくっている物ではない。
現実的には、そうであると思えればそれでいいっていう曖昧なコンセンサスのうえに同一性は成り立つものだし、ゆらぎがゆるされるのが、科学的な取り扱いとの違い。何かが少し変わろうと同じ何かだと信じられる人がいても差し支えない。物質的な条件にこだわる人からすれば部品が欠損すればもう同じものではないってことになるだけ。前者が推し活で、後者がコレクターって感じ。
だから、考える対象が作品だと分かりやすい。
海底2万マイルが日本語に翻訳されようと、まあ同じ作品とは言えるし、何に書かれていても同じ作品ではある。その特定の膨大な文字の羅列が作品ではなくて、いつもそういう「同一性のある存在」は無からうみだされていると思う。というか、「同一性」の正体がそういうある種の虚構なんだと思うんですね。